昭和50年03月05日 朝の御理解



 御理解 第22節
 「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、儘よという心を出さねばおかげは受けられぬ。儘よとは死んでも儘よの事ぞ。」

 「受け物が悪ければおかげが漏る」おかげの受け物次第と言う訳です。大きな受け物があれば大きなおかげであり、小さな受け物であれば小さなおかげであり。そこでどう言う様な受け物が一番素晴らしいかと言うと、我情を取り我欲を外した心、そういう心の状態が一番最高の受け物だと思うのです。我情を放し我欲を放すと言う事は、自分でああ有りたいの、あれが欲しいの是が欲しいのという心を取り外した心。
 所が私共はああ有りたいと思うたり、あれが欲しい是が欲しいと思うておる所に、良いおかげの受け物とは言えない、良いおかげも又受けられないと言う事になり。そこん所をお道の信心の私は素晴らしいと思う事は、ね、お取次ぎを受けると言う事である。ね。私はこう思います、私はあれが欲しい是が欲しいという、ね、それをお取次ぎを頂いてお願いをする、ね、そしてお取次ぎに委ね任せると言う事になってくる。ね。
 ですからその委ね任せると言う事に、例えば精進さして貰う、言うならば金光様にお任せをすると言う事である。ね。私は此処ん所がお道の信心の、一番素晴らしい所だと思うんです、お取次ぎを受けると言う事、又お取次ぎを受けたら御教えを頂く御理解を頂く。ね。そこから神様にお任せする委ねるという心も、スッキリと出けて来る。だからお取次ぎを頂いても、それがだた我情我欲を満たす事の為だけのお取次ぎを、願うというのでは、本当のおかげにはならない。
 お取次ぎを願わして頂いたら、又お取次ぎを頂いて帰るそのお取次ぎを頂いて帰ると言う事が、御教えを受けると言う事です、御教えを受けると私共の心は、いわゆる神様任せという心が生まれて来る、段々神様に任せた心こそが、私は一番最高のおかげの受け物だと思う。ね。それはもう神様にお任せする、親先生にお任せしとるから、こちらはあの精進せんでも良いと言う事ではない、只矢張り精進しなければならんのですけれども、その辺を間違ってはいけん。
 昨日は神愛会でしたから、先生方皆集まってーー信心の共励をさして頂きました。まあ色々で最後幾人かの先生方、発ちました後ででした、正教君がこの頃から東京へ行きまして、帰りにご本部へ寄って来た、で御本部で学院にあの栄四郎んとこに寄せて貰うて、その栄四郎んとこへ泊めて貰って帰って来た所、で昨日初めてそれを聞いた、それで遅くまでまあそれこそ寝ながらでしょう、栄四郎と信心話しを、その色々させて頂いた中に、栄四郎の話しの中に。
 先日からお話を頂いたのに、昭和十二年か何とか言ってましたから、もう四十年ぐらい前の話、高橋正雄先生のお話を頂いたという、話を講師の先生から聞かせて貰った。先生がそのお話の中に「大体お道の教師とはどう言う物か」と「お道の教師になると言う事はどう言う事なのか」と言う様なお話であった。それにまあ結論的なお話は、どう言う事かと言うと、「死ぬる事だ」と言われたんだそうです。
 確かにお道の教師を志すと言う事は、本当に例えば死を覚悟と言った様な事ではないですけれども、もう死ぬるとと同じ事の様な感じです。終宵ねもう一生涯を神様に捧げるっちいうのですから、ね。そういう話をしておりましたら、その西岡先生がです「はぁもう今日はおかげ頂いた」って言う訳なんです「本当にそれだった、そうだった」と言う訳なんです。何か最近心にモヤモヤとした、何かスッキリしないものがあった、けれどもお道の教師は死ぬる事だと、そのまあ栄四郎の話を聞いた時にです。
 本当にそうだったともう本当に今まで何日間心にモヤモヤしておったものが、一遍にスッキリとして「はぁ今日もおかげを頂いた」と言うて一番最後の時に、そう西岡先生が言っておられました。こりゃそうですね死んだ気になったら、ね、死んだ者がそんなにモヤモヤしらた腹立てたり心配したりするはずありません、ね、本当にお道の教師とはもう死ぬる事だと、それは一切を神様に全身全霊を捧げたという意味なんです。
 その例えば捧げておる者が自分が勝手に、また貰い下げた様な状態で、そして自分勝手に心配をしたり、ね、いらいらしたりしておるのである。もう本当にですね、私は是はお道の教師だけの事ではないと、本当に最高のおかげの受け物を、私共が頂きっ頂きたいと思うならばです、言うなら此処でも教えておられます様に、儘よという心を出さねば十分のお徳は受けられんと仰るのですから、儘世とはね、死んでも儘よとね、死んだ気にならなければ儘よという心が生まれて来ない、ね。
 だから俺はもう死んでるんだからと言うて、精進しないというのじゃない、もうどうなっても良いというのではない、是は私が修行中に頂いた、あの御教えですけれども、「死んだ気で励め勤めよ徳が付く、人も助かる、道も開ける」というのである。死んだ気になって、言わば、勤めなければダメ、励まなければダメなんだ。「もう今日はもう雨ん降るからもう今日はご無礼しよ」っち言う様な事じゃいかん、やっぱ勤め励まにゃいかん、真心を持って勤める、真心を持って励まして貰う、ね。
 それももう死んだ気になって、そこに人も助かれば、道も開けるとこういうのです。もうこういう心の状態が、一番最高のおかげの受け物神様が、ね、一様におかげを授けて下さっておるそのおかげをです、私共が半死半生になるからおかげも半死半生になるのであって、ね、私共が死んだ気であれば神様が下さろうとするのを、物を受け止める事が出来る、ね、私は死んだ気でと言う事は、第一もう不平不足を言わんで済む事だと思うです。ね。例えば不平っ所がその、生きて来るです心がね。
 良く此処では皆さんが良くお届けされます、親先生が亡くなられたお夢を頂いたという、昨日も末永先生がその、もう10何年前まだ椛目の時代に私が亡くなったお知らせを頂かれて、ビックリして椛目にやって来て、奥さまに「親先生は元気ですか」っち言うて、「はぁ元気ですよ」っち(笑)。聞いてから、安心したと言った様な笑い話の様な本当な話なんですけれども、そう言う事があった。
 皆さんがそういう風にです例えばあの、私の私が死んだというお知らせを頂かれたり、お夢を頂かれたりした時には、私は何か大きな問題に、を持っておるけれどももうそれを死んだ気で受けておる時なんです必ず。ね。神様がちゃっと見通しそれこそ聞き通し「天地金乃神といえば、天地を一目に見ておるぞ」と、不平不足が出けて来る、我情我欲を言い出す、そこに心配がある不安がある、イライラモヤモヤがある、ね。
 そう言う事に直面して、愈々その心配やらイライラが募って来る、そこで「はぁほんにこれではいけない、こう死んだ気で励まにゃいかんのだ、勤めにゃいけんのだ」ということに、ポッと気が付かせて頂いて、死んだ気になると、今までの我情我欲が一遍に無くなってしまう。それが何時も言うならば十分の、十分所ではない十二分のおかげともなって、思いも掛けないおかげに展開して来るのである、ね。
 だからおかげっ「受け物が悪ければ」と言われるならおかげの、良いおかげの受け物と言う事は、我情我欲を取った心だと、ね、なら我情我欲を取った心とは、ならどう言う事かと言うと、ね、死んだ気でおると言う事である。そこには我情も無からなければ我欲も無い。お道の教師足らずとも、ね、兎に角金光様のご信心をさせて頂くと言う事はです「日に日に生きるが信心なり」と言われるように、ね、日に日に日に日に死んで行くと言う事なんだ。日に日に生きるが信心と言う事は。
 日々無くなって行く、ね、だから日に日に生きる、その又翌日には又新たな命が生まれて来る、ね。そう言うそれがお道の信心なんだ、日に日に生きるが信心である、日に日に死んで行くと言う事が信心である、日に日に言うならば、死んだ気で励め勤むと言う事と同時にです、ね、我情我欲を言わない、思わないということなんです。けれどもなら私共はです、ああ有りたいこう有りたいと思うから、それをお取次ぎを頂く事によって、その時点から我情が無くなる我欲が無くなる。
 言わばお取次ぎを頂いてお願いをすると言う事は「神様どうぞよろしくお願いします」と言う事なんです。だから「どうぞよろしくお願いします」とお願いしたら、もう私共の心の中には、ね、そのお任せしたという心の状態が開けて来なければ嘘である。「心配する心で信心せよ」と、心配な事が起こって来る、ね、だからお願いをする、そして又その心配を持って帰る様な事ではいけんのだ、まあその辺の所が稽古ですね、お取次ぎを頂くと言う事によって心が安らいで来る。
 我情が無くなって来る我欲が無くなって来る。そこに段々十分に近いおかげの受け物が出けて来る様になる、しかもその受け物が清らかに、しかも大きく段々育って行く、神様の言うならば十分の徳を受けようと思えば、儘よという心を出さねば、ね、儘よと言う心がお任せをすると言う所から生まれて来る、お取次ぎを頂いての事であるからというのである。その儘よという心を出すと十分の言うならば徳が受けられる。そういう繰り返しをさして頂く、我情が頭をもたげて来る不平不足が心に感る、ね。
 又は不平不足を言う様になる、はっ是は言わば死んだはずのつが又生きて来よると思うて、それを殺して行く、ね、殺した途端に心の中に開けて来る物はそれこそすっ、西岡先生じゃないけれども、はぁそうだったお道の教師とは死ぬる事であったと、気付いた時に何日間の心のモヤモヤがもう一遍に消えてなくなった、ね。そういう私は助かりを体験して行くと言う事が尊いと、ただ願う事頼む事。
 それをもう願い続け頼み続けてずうっとその事がです、心の中に残っておったんでは、言わばおかげは受けても十二分、十分の徳を受けると言う事は出けません。寝ても覚めてもお願い事が言わば成就しない、または成就する事ばかりを願っておる、ね、それでは言わば儘よと言う心ではない、儘よと言う心は言わば死んで喪儘よの事ぞと。ね。だからと言うて、ならお道の教師、だけに関わらないのですけれども、兎に角死ぬる事だと、言うなら日に日に生きるがお道の信心だと、解からして頂いたら、ね。
 日に日に自分という者を空しゅうして行く、自分という者を殺して行く、ね、言うならば我情を殺し我欲を殺し、ね、自分の思いを殺して行く。その一つっその方法がお道ではお取次ぎを頂くと言う事である、お取次ぎを頂いた所からです、儘よと言う心が出て来る信心になりたい、それはもう死んでも儘よと言う心に通ずるのであり、また死ぬる事に通ずるのであり、ね、そう言うなら死んだ気で励み勤めさして貰う所からです、愈々本当の人も助かる道も開けると言う様なおかげの展開とはなって来る。
 一番言うならばおかげの受け物が悪いから、神様は平等におかげを下さってあるのだけれども、ね、そのおかげが漏ってしまう、それは私共が我情我欲を言うた、ね、心で願っておる様な心では、ね、それはもう願った事が一部おかげになる位な事であって、大したおかげにはならない、ね。そこで最高の受け物というならば、先ずは私共がです、ね、我情我欲を取る、言うならば死んだ気で日々おかげを蒙る所に、心がスッキリとしたね、不平不足を言わんで済む心の状態。
 その心の状態におかげが受けられるというのであります。「儘よとは死んでも儘よの事ぞ」と。是が私は金光教的私は達観と言うか、悟りだとこう思うですね。是はだからね一つやっぱ稽古してみなきゃいけません、今日昔良く「一日戦死」と言った様なね、言葉が戦時中に流行りました、ね、色んなその御用に出らにゃきゃならない、ね、工場に奉仕に行ったり色んな事があります、だからそういう時に一日自分はもう戦死した積りで、お国のために尽くせというのです一日戦死です。ね。
 だから私共もねその時々その、本気で一つ今日は本気で死んだ気で、不平も言うまい不足も言うまい、また教会に御用でもある時には、今日はもう愈々死んだ気で励め勤めさして貰おう、しかも教会の御用にと言う様なね、私は稽古をなさらなきゃいけない、そしていかに死んだ気で御用さして貰う事が、励み勤めると言う事がそっどんな素晴らしい事かと言う事を。又は本当に今日一日死んだ気でおったら。
 不平不足を言わんで済む事がどんなに素晴らしい事かと言う事を体験して、是は一日戦死ではない、ね、何時も此の様な状態になれたらという、言わば稽古を積んで行くと有り難い。ね。そりゃもう不平も無からなきゃ不足も無い、ね、いえおうそれをね、そう言う稽古をさして貰いよると、その事が素晴らしい事が段々身に付いて来るとです、今日は死のうと思わんでも死んどる自分に気が付く有り難い、不平不足が第一出よらん、ね。ああ有りたいこう有りたいという思いがない、ね。
 もう何時の間にか心の状態が死んだ気でおれておる、ね、そこに限りないおかげが受けられる。だから稽古の時には、もう本当に一つ死んだ気で勤めようと、だからまあ不平不足が湧いて来る、はぁ死んだ者んがこげな不平不足どん言うちゃならんと思うて、それを押さえる押さえるだけでも稽古になる。まだ椛目の早々の頃に私はそういう修行をしよった、ある所へ宅祭に行った。
 親先生があぁ大変おうどんが好きだからと言うので、うどん出して貰うたのは良かったけれども、そのうどんにスメが入っとらなかった、それこそ日々死んだ気での稽古をしよるもんだからね。お位牌さんがもの言わっしゃるはずはないというので、黙って私はそのうどんばもうほとんど頂きっ、頂いてしもうとったら勝手の方で。「あらぁしもたぁ」っち言うてから言いよる「今んとにはスっ、スメを入れとらじゃった。
 具はいっぱい入っとったばってん、スメの入とらじゃった」「まあちょいと親先生言うて頂きゃ良かのに」とこう言う訳なんだけども、ね、死んだ者がもの言うはずはないからね、私はもう死んだ気で今信心の稽古をしよるから、死んだ者が者言うはずはないじゃないかと言った様な、笑い話の様な事もやっぱりあるんです、本気で稽古さして貰うと神様が本気で死んだ気でおるかどうかを試しなさるのでしょう、ね。だからそこをそういう、例えばね笑い話の様ですけれども。
 稽古に励まして貰うと言う事が、勤める事であり励む事である、そりゃもう死んどるとじゃけんじぃっとしときゃ良かっちいうなこっちゃないです、励み勤めなければお徳は付かない、お徳が付かなければ、人が助かるとか道が開けるとかと言う事もない。ね。そして我情我欲を外した、言わばそこには我が身は神徳の中に生かされてあるその喜びを、心の中に一杯感じさして頂ける様な日々、その喜びに限りない神様が下さるおかげを受けとめて行く事が出来る。ね。そういうおかげを一つ目指したいですね。
   どうぞ。